富山で神通川をぼーっと見ながら、
ふと思った。
これから、かつてこの川を舞台に起こったことの全国版、
もしかしたら世界規模版が始まるのもしれない。
それ見たことか、と鬼の首を取ったように。
許せない、立ちあがろうといったように。
でもその「鬼の首」も、度合いやタイミングまでもが
周到に用意されたものかもしれない。
まるで濃い酸素の中にぶっ込む、火花のように。
もしそうなら、「酸素」には何が該当するだろう。
自分の中では経験的にはっきりしているのだけれど、
そうした行いは当人にとって、自滅への道。
一人でも相当なパワーなのに、
それを集団でやった時の影響力は、
想像がつかない。
たまさかそれに「勝った」としても、
それでハッピーエンドというふうにはならないんじゃないのかな。
行動源となるその感情が沸き起こった「真の原因」は、
当人が勝った対象にはないから。
それも当人の選択の自由と前置きした上で、
そこまで自分を追い込まなくてもいいんじゃないのかな。
だってまだちゃんと生きているのだから。
あの時の選択をやっちまったなと思うのなら、
この今の選択をやっちまったなと思わないようにしていけばいい。
そうしたら「この今」がいつか「あの時」になった頃、
あの時の選択をやっちまったなと、また思わずに済む。
24時間365日とまではまだなかなかいかないけど、
私はそんなふうに思って日々過ごしている。
このブログはそうしたわたしの、
「続きの足あと」でもある。
