たぶんこの2つ、
根っこは同じこと。
自分で自分を知っていく、
という点においては。
これは実におもしろいもので、
そうかなるほど、と「知った数」が増えていくほど、
「まだ知らない部分の存在の予感」も増していく。
あっという間にゴールにたどり着いてしまう迷路の味気なさとは反対に、
「知らない部分」がまだまだたくさんあると思える感覚は、
内的な探究心に静かに火をつける。
「全部知ること」は目的としていない。
ただやりたいからやっている。
「やっているのだということに自覚的になってきている」と言ったほうが、
より近い表現なのかもしれない。
「知らないこと」を知るには頭だけでうんうん考えても仕方がなく、
喜びでも歓びでも痛みでも悼みでも、
何かの体験を通じて思ったり感じたりしたことを、
自分の中で消化する過程で気づいていくしかない。
それが経験。
その点が深く腹落ちしてくると、
たとえ喪失や抑鬱や自滅であっても、
およそその反対に位置するイベントと比較して、
体験としては等価な「必要な経験」だったのだと思える。
人によってはこのプロセスを、
「許し」と捉えるかもしれない。
それ以前もたくさんの経験をさせてもらっていたのだろうとは思いつつ、
とりわけ5年前のあの日からを振り返ってみたときに、
収入の最大化にはまだ到っていないけれども、
経験の最大化なら結構イイ線いってたかなと。
